銀泉マクワウリ
独り占めできるメロン
富山の伝統野菜、銀泉甜瓜は、
銀泉甜瓜の先祖は菊メロンと黄まくわですが、
しんしゅう屋の畑から収穫したばかりの銀泉マクワウリ |
弥生時代から愛される和メロン
そもそもマクワウリは、
他にも、様々な時代の史料においてマクワウリが登場し、
マクワウリの記述が見られる史料
『今昔物語集』『万葉集』『源平盛衰記』『吾妻鏡』『梁塵秘抄』『瓜姫物語』『農業全書』『日次紀事』等
上記の様々な史料にマクワウリの存在が伺えるのですが、
織田信長も愛したとされるマクワウリ
戦国時代の覇者である織田信長も、
天皇の身の回りの出来事を記した『お湯殿の上の日記』には、
天正3年(1575)6月29日
「のふなかよりみのゝまくはと申すめい所のうりとて。二こしん上申す。」
現代語訳
信長が、美濃の真桑という所の瓜といってニ個進上する。
27日に京へ入った信長は、滞在中にマクワウリを含めた献上品を朝廷に納めています。
天正3年(1575)7月12日
「しやうれんゐん殿御めてたことに御まいり。三色ニか御たるまいる。御みまにてニこんまいる。あふみのまくわのうりとて。のふなか一こしん上。よるにはかに御うたいあり。宮の御かたなりて。くこん。うたいはんしゆところにてあり。」
現代語訳
尊朝法親王(しょうれんいん殿)が喜ばしいことに参り、三品二荷の樽を差し上げなさる。挨拶としてニ献もてなした。近江の真桑の瓜といって、信長が進上する。夜、急に謡があった。宮の方がいらして、お酒、謡の吟味があり、多くの人々がその場所に集まった。
朝廷に献上品を奉納することは当時よくあることでしたが、信長が献上したマクワウリは真桑という地域のものと紹介されており、他のマクワウリとは異なる、珍しいものだったと思われます。
その後に謡のくだりがありますが、能が好きだった信長のもてなしがあったのではないでしょうか。
マクワウリはなぜ日本の食文化から消えたのか
何故これほど長く様々な人々に親しまれてきたマクワウリは、日本の食卓から消えてしまったのでしょうか。
大正期にマクワウリと西洋品種を交配させたメロンや、西洋から導入されたマスクメロンが登場しました。
メロンはマクワウリより糖度が高く、希少性が高いため、農家はメロンの栽培に移行しました。しかし、
*しんしゅう屋の銀泉マクワウリの旬は7月〜8月
本葉を出す銀泉マクワウリ |
銀泉マクワウリの花 |
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