銀泉マクワウリ

 

独り占めできるメロン

 富山の伝統野菜、銀泉甜瓜は、甜菜糖の甜という漢字が当てられているように、甘い果肉と果汁がたっぷりと詰まった和メロンです。

 

小ぶりのちょうど一人分の大きさで、「独り占めできるメロン」です。皮が薄いため、簡単に切って気軽に食べられます。サクサクとした食感と口に広がる爽やかさがたまりません。

 

銀泉甜瓜の先祖は菊メロンと黄まくわですが、それぞれの良さを受け継ぎ、黄色に銀の線が入った美しい皮に、甘さたっぷりの実が魅力的です。

 

しんしゅう屋の畑から収穫したばかりの銀泉マクワウリ



弥生時代から愛される和メロン

そもそもマクワウリは、西洋のメロンに対して東洋のメロンと呼ばれる品種ですが、その歴史は古く、弥生時代にはマクワウリ系統のウリが既に栽培されていました。(弥生時代の遺跡、唐古・鍵遺跡や登呂遺跡からマクワウリの種とよく似た種が出土しています)

他にも、様々な時代の史料においてマクワウリが登場し、長年日本でマクワウリが愛されていたことがわかります。

 

マクワウリの記述が見られる史料

『今昔物語集』『万葉集』『源平盛衰記』『吾妻鏡』『梁塵秘抄』『瓜姫物語』『農業全書』『日次紀事』等

 

上記の様々な史料にマクワウリの存在が伺えるのですが、マクワウリのことを熟瓜と書いて「ホソジ」と読んだり、甘瓜と書いて「アマウリ」と読んだり、蜜瓜、甜瓜、真桑瓜、五色と書いたりしていました。(他にも様々な読み方がありますが、割愛させていただきます。)


織田信長も愛したとされるマクワウリ

戦国時代の覇者である織田信長も、マクワウリをいたく気に入っていたと言われます。

天皇の身の回りの出来事を記した『お湯殿の上の日記』には、信長がマクワウリを何度か献上している様子が記されています。

 

 

天正3年(1575)6月29日
「のふなかよりみのゝまくはと申すめい所のうりとて。二こしん上申す。」


現代語訳
信長が、美濃の真桑という所の瓜といってニ個進上する。


27日に京へ入った信長は、滞在中にマクワウリを含めた献上品を朝廷に納めています。

天正3年(1575)7月12日
「しやうれんゐん殿御めてたことに御まいり。三色ニか御たるまいる。御みまにてニこんまいる。あふみのまくわのうりとて。のふなか一こしん上。よるにはかに御うたいあり。宮の御かたなりて。くこん。うたいはんしゆところにてあり。」

現代語訳
尊朝法親王(しょうれんいん殿)が喜ばしいことに参り、三品二荷の樽を差し上げなさる。挨拶としてニ献もてなした。近江の真桑の瓜といって、信長が進上する。夜、急に謡があった。宮の方がいらして、お酒、謡の吟味があり、多くの人々がその場所に集まった。

朝廷に献上品を奉納することは当時よくあることでしたが、信長が献上したマクワウリは真桑という地域のものと紹介されており、他のマクワウリとは異なる、珍しいものだったと思われます。

その後に謡のくだりがありますが、能が好きだった信長のもてなしがあったのではないでしょうか。



マクワウリはなぜ日本の食文化から消えたのか

何故これほど長く様々な人々に親しまれてきたマクワウリは、日本の食卓から消えてしまったのでしょうか。

 

大正期にマクワウリと西洋品種を交配させたメロンや、西洋から導入されたマスクメロンが登場しました。

メロンはマクワウリより糖度が高く、希少性が高いため、農家はメロンの栽培に移行しました。しかし、メロンは流通量が少ないため、高い値で取引され、気軽に食卓で食べられる野菜ではありません。マクワウリの座をメロンが奪ったわけですが、同時にその食文化も奪ってしまったのです。

 

 

 

*しんしゅう屋の銀泉マクワウリの旬は7月〜8月


本葉を出す銀泉マクワウリ

銀泉マクワウリの花




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