熱中症と向き合い続ける日本人
夏を迎えるたびに気を付けなければならない熱中症。医療機関を受診した熱中症患者数は毎年29万~39万人を推移しており、2100年には地球温暖化の影響により、患者発生率は二倍に増えると予測されています。
誰しもがなりうる熱中症ですが、明治以前は暑熱による病気のことを「霍乱(かくらん)」「中暑(ちゅうしょ)」「暍病(えつびょう)」「暍死」「中熱」「中暍」「注夏病」などと様々な名で呼んでいました。それぞれ症状によって名称が異なりますが、例えば以下のような使い分けをしていました。
〇「動いていて暑邪(高熱、顔面紅潮、大量発汗、口渇などの激しい熱症状)に罹ったときは「中熱」「中暍」と言い、じっとしていて暑邪に罹ったときは「中暑」と言う。」(『牛山活套』)
なお、『内科秘錄』において、「中暑」は宗・元(960~1368)の時代以降の名で、古くは「暍」と言ったとあります。江戸時代末期には「中暑霍乱」といって、軽度なものは「中暑」、重度なものは「霍乱」と判断されたようです。『内科秘錄』の著者である本間棗軒(救)は、暑気にあたる者が「中暑」、飲食に障りがある者は「霍乱」としています。
〇「春の末から夏の始めにかけて罹るものに「注夏病」がある。頭痛がして微熱や倦怠感があり、小便が黄色くなる。また、昼寝を好んで脚が弱り、歩くことが疲れるようになる。顔色が悪く黄色くなり、痩せ衰え、食欲不振にもなる。「夏痩せの病」ともいう」(『牛山活套』)
江戸時代の熱中症対策
大蘇芳年「東京自慢十二ヶ月. 8」 |
江戸時代には、むしろや顔かけ、うちわなどの道具が用いられる他、実に様々な方法で熱中症と向き合っていました。
江戸時代の医師で、11代将軍徳川家斉の侍医でもある多紀元徳著の『広恵済急方』には、熱中症になった時の緊急事態に対する方法が記されています。
「中暑に罹った場合は、陰へ寝かせて道の熱い土塊を臍の上に置き、穴を掘ってそこによく小便をさせて熱気を取り除く。その他衣類や手拭の類を熱湯につけて臍あるいは気海の上にあてる。あるいは道傍の熱土をすくい臓の上に積み、冷えれば取換える。またすで、に死んだようであれば新しく汲んだ水を少し鼻の孔に入れて扇であおぐ。重い病人なら日のあたらない地を一尺ばかり掘ったその中に水を入れて撹祥し、その水を鼻の孔へ入れる。水ばかりを飲ませてはいけない」
漢方医学において気海(臍の下一寸のところ)は精気の根源とされています。また、腹部に熱い土を置くことは、汗をかいて冷えた体のバランスを整える意味があると思われます。服薬としてはニンニクや生姜も紹介されていますが、熱中症の研究をされた三浦豊彦氏はこの記述に対し、「こんな方法が実際に実行されたかどうかはわからない」としています。他にも多紀元徳の書籍『済急方巻之上』の中で、入浴中の熱中症対処法に、塩水を飲むという方法が紹介されています。
幕末の医師である平野元良によって書かれた『軍陳備要救急摘方』の「暑にあたりて悶絶せんとせしの手当の事」にも熱中症対策が紹介されています。
「暑さにあたって悶絶した者は早く山陰や樹の下で風の通りがよく、冷たいところへ負って行き、生姜の絞り汁を多く飲ませた。しかし、水などを多く飲ませてはいけない」また、「暑気にあたるというのは、健康で血液に粘りがある人か、虚弱な人かのいずれにせよ、日頃不養生をして病のある人に多いものである」と記しています。
その他治療法としては、『恵済急方』と同様に倒れた人に熱土や熱瓦を臍にあてて蒸す方法、臍および臍の面側に灸をそえる方法などを挙げています。内服薬には硫黄や硝石、鉄砲の玉薬を水か湯で飲むとよく、頭に冷水を多く注ぎかけるのもよいと記されています。
江戸時代から明治、大正にかけて一般的に熱中症の治療や予防として用いられた漢方薬があります。枇杷葉湯(びわようとう)、延命散(えんめいさん)、香薷散(こうじゅさん)です。様々な調合が存在しますが、この3つは江戸期の通俗医書に必ず登場するようなものとされています。
枇杷葉湯は 乾燥させた枇杷の葉の毛と、肉桂や甘茶などを細かく切って調合させたもので、散薬として服用したり、煎じて飲んだりしていました。関西で盛んに売られたようで、「盛夏の候に薬屋の店先で乾燥した枇杷の葉を大きな茶釜でぐらぐら煮て通行人に自由に飲ませるほど一般化していた」そうです。
ただし、熱中症専門の薬というよりかは、夏の栄養ドリンクという扱いで売られていました。宣伝のために、誰にでも無料で店頭や行商の路上で配られていたことから、浮気者という意味で「枇杷葉湯」と使うこともあります。
ちなみに、枇杷葉湯を売る者はその由来を以下のように口演することを義務づけられていました。
「烏丸本家枇杷葉湯。どなたも御案内でしょうが、京都二条通り烏丸大納言様御難病のとき御医者衆いろいろ寄りまして手を尽せど其のしるし更になし。拙者親方寿庵先生は勿体なくも日本で第一、熊野権現様へ二十と一日断食祈願した。あら不思議や、枇杷の葉を巻物に入れて、三羽の烏くわえ来た。勿体なくも有難やと巻物を聞き、大納言様へ差上ぐれば、たちまち御平癒。その御褒美として日の丸に三羽の烏の御紋付と三十と二荷を下され、その上に東海道、中仙道は申すに及ばず、九州九ヶ国、四国八十四ヶ所の浦々谷々売り広めよとの仰せ。年々四月上旬から八月下旬まで大道に荷を下し、御婦人方には産前産後、血の道、血の狂い一切により、御子供には五疳や脾疳、驚下、驚風は申すに及ばず、一切の病たちまちに消え、今のはやり病によく男衆には疝気、疝癪……」
延命散は一般的に「定斉」といい、白朮(びゃくじゅつ)、芍薬(しゃくやく)、良姜(りょうきょう)を中心とした23種の生薬を粉末にしたものです。薬箱2個を天秤棒にかついで行商され、こんなに夏の暑さに効果があるという謳い文句から、「炎天下に売手は笠をかぶらず箱の鎧をガッチガッチとならして」いたそうです。
香薷散は、陰干しした香薷(ナギナタコウジュ)という植物を粉末にした散薬です。江戸時代には霍乱防止の薬として旅行者の多くが携帯していました。
焼死107,046人の記録が残る明暦の大火(1657年)では、江戸城をも燃やし、その修築工事の熱中症予防にこの香薷散が支給されました。
この修築を任された前田藩は「江戸城の修復に働く職人、人足の暑気対策に江戸中の医師に数千袋の香需散を調製させ、これを工事現場の各所におき、大桶にいれた飲料水とともに配置し、職人、人足が水を飲むとき、この薬を服用させたので、数万の人足は暑気にあたることはなく、これをみて、前田松雲侯の配慮に感服した」そうです。
ちなみに、至急修築をしなければならないということもあり、大工の労働時間は夏13時間、春秋12時間、冬11時間でした。そのような労働環境では、熱中症の恐れは十二分にあったことでしょう。
明暦の大火の様子『むさしあぶみ』浅井了意 |
江戸城修築の労いと暑さ対策
天保15年(1844)に再び江戸城が焼けてしまいますが、その修築工事の際には、暑さ対策や労いとして様々なものが配給されました。
6月17日に砂糖で甘くした葛水が役人と職人の8,377人に配られ、7月6日にはもち米の粉を水で溶かしたと思われる道明寺水が役人507人、職人、人足、車力など11,799人に配られました。
また、秋になった9月1日には柿と梨が水菓子として配られました。「この時の職人の人数は21,302人で、柿は1人5個ずつ、梨は2個ずつだったから、106,000個の柿と、42,604個の梨」が用意された計算になります。
さらに、10月11日には樽抜柿が約10万 1千個用意され、役人627人、職人1万9,320人、合計19,947人に配給されました。
嵩岳堂主人「生写四十八鷹 目じろ 柿」 |
誰しもが罹りうる熱中症。そもそも納涼として夏の野菜や果物、魚介類を食べたり、川辺で涼んだり、うちわで扇いだりということは、昔からされていることで、熱中症にならないための日頃からの対策です。それは現代においても変わらず、基礎体力をつけて暑さを避け、こまめな水分補給をするしかありません。
環境負荷を考えずに発展を遂げた人類の活動が、急激な地球温暖化として人類に降りかかっています。生物が体のバランスを保つ機能にはもちろん限界があります。ヒトの生死にも関わるこの問題に立ち向かう術を一人ひとりが心得ておく必要があるのです。また、一人ひとりの消費生活や環境意識が地球環境の保持に繋がることも共に考えてほしいと思います。
参考資料・参考文献
古事類苑データベース
http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/
三浦豊彦「徳川時代の熱中症予防と20世紀初頭の高温職場の食塩補給の歴史」
https://darch.isl.or.jp/il/cont/01/G0000002rouken/000/015/000015610.pdf?log=true&mid=860020&d=1579564801607
国立環境研究所「熱中症患者の発生状況と今後の予測」『環境儀 NO.32』
https://www.nies.go.jp/kanko/kankyogi/32/10-11.html
総務省消防庁「3.熱中症はどれくらい起こっているのか」
https://www.wbgt.env.go.jp/pdf/manual/heatillness_manual_1-3.pdf
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